こんにちは。
皇居に佇む「楠木正成」の銅像!銅像や場所についてご紹介!の続きになります。
楠木正成の銅像は東京三大銅像と言われていて、残りの二つは、上野の西郷隆盛像と、靖国神社の大村益次郎像です。
一体なぜ、楠木正成の銅像がなぜ皇居の前にあるのでしょうか。
天皇の忠臣として「北条氏」や「足利尊氏」と戦い、その功績がたたえられた。
楠木正成は、終生をかけて「後醍醐天皇」に忠義を尽くした武将です。
鎌倉幕府は「北条一門」が支配していましが、幕府の圧政に民衆が苦しんでいるのを知った後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すべく京都へ挙兵します。
しかし、後醍醐天皇の兵力は1000以下に対して、鎌倉幕府軍は数十万だったと言われています。
敗北必須の絶対絶命に追い詰められた後醍醐天皇でしたが、
楠(くすのき)の大木にたよれ
という言葉を夢で見て、まだ若かった楠木正成に異例ともいえる使者を発して迎えました。
楠木正成もそれに応え、数十万の鎌倉幕府軍をわずか500足らずの兵で追撃します。
籠城作戦で散々時間を稼ぎ、あの手このでで幕府を追い詰めていきます。
その間手薄となった京都を足利尊氏が、鎌倉を新田義貞が制圧し、鎌倉幕府は滅びます。
その後、後醍醐天皇が再び天皇の力が強い政治を目指そうとして、あの有名な健武の新政を行います。
しかし、あまりにも現実離れの理想主義政治だった為、多くの武士は後醍醐天皇から離れていきます。
後醍醐天皇は、源氏の棟梁であった足利尊氏と戦うことになり、後醍醐天皇の味方をしたのが「楠木正成」と「新田義貞」です。
楠木正成は、和睦を薦めますが受け入れられず、また「京都からの撤退」と「籠城」も薦めますが、京都を離れたくない後醍醐天皇に受け入れられませんでした。
結果、新田義貞と「湊川」で足利尊氏を追撃しますが敗北します。
1336年にこの「湊川の戦い」で楠木正成は亡くなりました。
敗北するとわかっていながら、後醍醐天皇に評価してもらったことを忘れず、その恩に報いるために死を覚悟して戦い亡くなったのです。
明治時代になると、天皇中心の政治が行われるようになったため、天皇に忠臣を誓って戦った「楠木正成」や「新田義貞」が非常に高い評価をされるようになりました。
楠木正成の「小竜景光」は明治天皇に献上され、戦後は天皇から東京国立博物館へ移管されています。
最後まで天皇に忠臣を誓い戦い続けた姿勢が評価され、楠木正成の銅像が皇居前につくられることになりました。
明治26年に木彫の原型が完成した際は、吹上御縁内に組み上げて、明治天皇の展覧に達したそうです。
まとめ
楠木正成が最後まで天皇についていたのは、評価してもらった天皇への忠義からです。
忠義に死すべしという考え方は、当時の武士をも感動させ、その精神は戦国、江戸、明治と生き続け、明治天皇の時代に銅像となって生まれ変わりました。
悲劇のヒーロという存在は、日本人の美学と一致した結果なのかもしれません。
ではでは~